ミスワカナ



初代ミスワカナ(しょだいミスワカナ 本名:川本杉子 1910年10月20日生)
 [漫才師]


 鳥取県出身。1915年頃から父の巡業に同行するかたわら安来節を身につける。後父と離別。1920年に9歳で2代目河内家芳春に入門し、河内家小芳を名乗る。ワカナは1925年に初代平和ニコニコとコンビを組み千日前楽天地に出演し、同地で無声映画のオーケストラ伴奏のドラマーだった玉松一郎と出会い恋に落ちる。しかし、幼少期から許婚がいたワカナは、1928年郷里に戻り結婚して一女をもうける(後の三崎希於子)。一方、一郎も両親に反対され仕事まで辞めさせられる。

 翌年1929年にワカナは大阪に戻って活動再開。一郎も活動を再開し、たまたま玉造の朝日座で無声映画の伴奏をしていたところ、ワカナも近くの玉造の三光館で漫才の修行をしていた。ある日タバコを買いに出掛けたときに二人がばったり再会し、周囲の反対を押し切って西へ駆け落ち。汽車の中でコンビを結成を決意した。広島の小屋で一郎がセロを持ってやる音曲漫才でコンビ初舞台。中国、九州地方を経て中国青島へ渡った。同地では漫才を続けていたが、一郎が土地に馴染めず腎臓の病気で体調を崩し塞ぎこむ日々が続く。ワカナは家計を支えるためダンサーやタップをやったりをした。一郎はこの頃にアコーディオンを習得した。帰国後の1931年、ワカナは都家若菜に改名して一郎とコンビを組み、「若菜万歳一座」の名で九州地方へ巡業する。

 1937年3月に林正之助が広島の呉の清水興行にいたワカナと一郎を誘い吉本興業へ入社させ、コンビ名をミスワカナ・玉松一郎とする。以降寄席、ラジオ出演、レコード録音を盛んに行う。ワカナの鉄砲のごときスピード感で繰り出される変幻自在な話術と歌、茫洋としていながら実は絶妙にワカナを受ける一郎のツッコミとアコーディオンの演奏で人気を博した。ワカナ・一郎は、女性が男性をやっつけて話の主導権を握るという女性上位漫才の典型を確立したといわれ、その後多く輩出される男女コンビに大きな影響を与えた。

 1938年1月には「わらわし隊」の一員として中国戦線へ慰問を行う。1939年4月、新興キネマ演芸部に引き抜かれ吉本興業を突然退社し、大騒動を巻き起こす。1940年、風紀上好ましくない芸名の改名を求めた内務省の通達によりミスワカナから玉松ワカナに改名する。その後ワカナはある妻子持ちの俳優に夢中になり、1944年に一郎と離婚するがコンビは続ける。

 1946年、阪急西宮球場での野外演芸会の帰りに阪急西宮北口駅のホームで、ワカナは心臓発作を起こし35歳の若さで急逝する。ヒロポンの中毒と過労が原因だったと俗説されているが、当時の付き人の女性の「死ぬ二年ほど前から薬物は止めていた」との証言もあり直接の原因ではないだろうと言われている。なおヒロポンの中毒に至ったのは一郎の知り合いに看護師がいたため勧められたのが要因だったと言われている。通夜に駆けつけた芸人仲間は棺の前で、泣きながらヒロポンを打っていたという。墓所は京都北区光念寺。

 1946年10月15日死去(享年35)





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