フィル・ライノット



フィル・ライノット(Phil Lynott 1949年8月20日生)
 [アイルランド・ロックシンガー/ベーシスト]


 ウェスト・ブロムウィッチ出身。母が折からのアイルランドの不況のため出稼ぎに出なくてはならなくなり、ライノットは生まれてすぐマンチェスターにある祖母の家に預けられ、学齢期にダブリンに移るまでそこで過ごす。幼いころのライノットは、映画館で上映されていた西部劇と、エルヴィス・プレスリーの音楽の虜となった。このことは後の音楽活動に多大なる影響を与える。

 学業を終えると本格的な音楽活動の道に進み、ブラック・イーグルスを経て、当時アイルランドで最も先進的なロックを演奏していたとされるスキッド・ロウに加入。ここでベースの奏法を習得し、以後ライノットの演奏スタイルが確立される。スキッド・ロウ脱退後はポエトリー・リーディングの会を開きながら音楽に携わる。当時のアイルランドの流行にあわせアコースティックなサウンドにアプローチしたが、幼いころからロック志向を持っていたライノットにとっては本意ではなかったという。

 1969年に高校時代の友人ブライアン・ダウニーらとシン・リジィ (Thin Lizzy) を結成し、中心メンバーとして活躍。1976年3月に発表された6作目のアルバム『脱獄』(Jailbreak)は全世界で200万枚を超えるセールスを記録し、バンドの名を世界的に広めた。コカインの依存症だったフィルは、鼻からの吸引が過度であったために鼻骨が崩れ、プラスチックを入れる整形手術を受けていた。独特の鼻にかかった甘い歌声はドラッグの副産物だった。

 1983年にシン・リジィ解散後、新バンド「グランド・スラム」を結成したが不調に終わり、ソロ活動やゲイリー・ムーアとのコラボレーションを行っていたが、1986年にヘロイン注射に伴う内臓の感染症、敗血症により急死。

 シン・リジィを率いて全英で人気を博す中、U2を発掘するなどアイルランドの若手ミュージシャン育成にも力を注ぎ、またイングランドのグレアム・パーカー&ルーモアやアメリカのヒューイ・ルイスのクローヴァーなど実力のある若手を前座に招くなど、彼ら若手に対する音楽的なバック・アップを怠らなかった。「アイルランドの英雄」と呼ばれ続ける存在となったゆえんである。その他にも、幅広いミュージシャンと交友関係があった。反面、ドラッグ・アルコールへの依存症や豊富な女性関係など、悪い意味で1970年代の典型的なロック・ミュージシャンでもあった。シン・リジィの度重なるメンバー交代も、他のメンバーがそのようなライフスタイルについていけないことから起こることがしばしばあったという。しかしそうして去ったメンバーたちも、人間としてのフィルを嫌うことはあまりなく、むしろ慕い続けていた。

 1986年1月4日死去(享年36)


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