黒澤俊夫



黒澤俊夫(くろさわとしお 1914年6月10日生)
 [プロ野球選手]


 大阪府出身。旧制大阪府立八尾中学校から旧制関西大学へ進学。1936年、名古屋金鯱軍に入団し春季大会より参加。1941年に名古屋金鯱軍が翼軍と合併したため、合併球団の大洋軍(後の西鉄軍)へ移籍。1944年には太平洋戦争による人員不足のため、供出選手として東京巨人軍へトレード移籍。この1944年、1946年は主軸打者として応召された川上哲治の穴を埋めるなど、活躍した。俊足の外野手で、歴代2位となる通算10個のホームスチールを成功させた。さらに、1944年の5月20日には1試合2本盗を達成した(歴代1位タイ)。重心を下げた打撃フォーム、トレードマークのロイド眼鏡を中指で上げながら打席に入る姿が印象的であった。

 1947年のシーズン中、不治の病であった腸チフスを発病し、東大病院に入院。一週間後の6月23日に急死。子供はなく、妻が残された。現役選手のまま病死するという異例の事態に球団は球団葬を行った。黒沢が遺言として「自分が死んだら、巨人軍のユニフォームのまま葬って欲しい、巨人軍の一員のままで死にたい」と残し、遺体はユニフォーム姿で棺に納められた。

 1947年7月4日、黒沢の着けていた背番号4は巨人軍の永久欠番となった。黒沢の欠番については、ほとんどの主力選手を徴兵された戦時下の巨人に球団史上初のトレードで移籍後、4番を打ち、戦後も病に倒れるまで5番・6番打者として活躍した本人への感謝の意として、当時チームの主将であった千葉茂を中心とする選手有志が提案し、沢村栄治と共に欠番になった。

 黒沢の永久欠番の件については、これまで多くの著書やインターネットなどで紹介されてきたが、当時の事情を知らない人が多いことや、著者・編集者の偏向的な意図もあって恣意的に紹介、根も葉もない俗説が広まっている。決して死んだから欠番という縁起の面でや、4という数字のイメージを忌避する為に永久欠番となった訳ではないので、配慮すべきである。

 2006年、東京ドームに永久欠番のプレートが掲示された時、親類縁者を捜索したが見つからず、関係者不在でのセレモニーとなった。

 1947年6月23日死去(享年33)


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