高木徳子



高木徳子(たかぎとくこ 1891年2月15日生)
 [ダンサー]


 東京生まれ。神田女学院を中退し、1906年に15歳の若さでアメリカ移民の高木陳平と結婚して渡米、ニューヨークで陳平は料理人、徳子はメイドとしてアメリカ人宅で働く。その後、日本雑貨の売店を開いたが、しばらくしてうまくいかなくなり、下働きを嫌って、芸人になることにし、夫婦で旅芸人として各地を巡業した。ニューヨークで音楽家の高折周一から勧められてダンスを学び始め、アメリカ流のショービジネスに目覚める。ポルトガル人にダンス、イタリア人にパントマイムを習い、インド人の舞踏一座に加わった。

 ニューヨーク郊外の映画会社と夫婦で契約し、役者として働いたのち、陳平は役者を辞めて徳子のマネージャー的存在になった。そして米国やヨーロッパでミュージカルの舞台を踏み成功を収めた。徳子はトウシューズで踊った日本初のダンサーとなった。その後、ロシアから誘いがあり、公演を始めたが、1914年に第一次世界大戦勃発し、8年ぶりに帰国することとなった。

 1915年2月1日、23歳で帝国劇場で国内デビューを飾る。イタリア人演劇家ローシーの振付による『夢幻的バレエ』は喝采をさらった。同年4月4日、ピアニスト沢田柳吉の紹介で演出家の伊庭孝と出会う。同年11月、ダンススクールを設立する。このころ夫陳平の暴力に耐えかね自殺未遂、別居する。

 1916年、伊庭の勧めもあって「世界的バラエチー一座」を旗揚げし、同年5月27日から10日間にわたり浅草公園六区の活動写真館「キネマ倶楽部」で昼夜連続公演を行う。これがいわゆる「浅草オペラ」の嚆矢となった。同年7月に一座を解散、9月に伊庭と組み、弟子たち、および5月に解散したばかりの帝劇洋楽部のメンバーの一部とともに新劇団「歌舞劇協会」を結成した。徳子と伊庭の「歌舞劇協会」は、翌1917年1月22日、浅草六区の根岸興行部「常磐座」でオペラ『女軍出征』を上演、大ヒットする。ここから「浅草オペラの時代」が始まるとされる。

 1918年、念願の離婚が成立すると、芸名も旧姓の「永井徳子」に戻し、1919年には松竹の専属女優となった。しかし、興業上でのトラブルや伊庭との愛憎に悩み、持病のヒステリーが悪化していった。九州巡業中の3月20日、松竹が用心棒として雇ったヤクザの嘉納健治に強姦されて、福岡県飯塚市の「飯塚座」で発作で倒れ、同23日朝、大牟田の村尾病院に入院した。度重なるヒステリーの発作は、彼女の心臓に負担を蓄積しており、心臓病も併発。30日付の「東京日日新聞」には、「トーダンスの徳子発狂す 九州大牟田で入院 - モウ舞台に立てまい」と29日に福岡から打電された記事を掲載している。が、時既に遅く、30日朝9時に急死。台東区谷中の妙円寺に葬られた。

 1919年3月30日死去(享年28)





w友達に教えるw
[ホムペ作成][新着記事]
[編集]

無料ホームページ作成は@peps!
無料ホムペ素材も超充実ァ