市川雷蔵(8代目)



8代目市川雷蔵(いちかわらいぞう 本名:太田吉哉 1931年8月29日生)
 [歌舞伎役者/俳優]


 京都府生まれ。生後6ヶ月のときに3代目市川九團次の養子となり、15歳のとき市川莚蔵を名乗って歌舞伎役者として初舞台を踏む。その後、「武智歌舞伎」の武智鉄二のもとでスパルタ教育を受ける。1951年に3代目市川壽海の養子となり8代目市川雷蔵を襲名。1954年に大映にスカウトされ映画俳優に転身。『花の白虎隊』で映画デビュー。1959年の映画『炎上』での演技が評価され、キネマ旬報主演男優賞受賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞。1960年代には勝新太郎とともに大映の二枚看板(カツライス)として活躍した。

 15年間に154本の映画に出演、常にトップスターの座を歩みつづけた。時代劇を中心に出演したが、屈折感のある現代青年役も好演し、『炎上』『ぼんち』『陸軍中野学校』『ある殺し屋』『華岡青洲の妻』などに発揮された。時代劇の代表作に『新・平家物語』『弁天小僧』『忍びの者』『眠狂四郎』がある。

 1968年6月、雷蔵は『関の弥太っぺ』の撮影中に下血に見舞われ、入院した。検査の結果直腸癌であることが判明したが、本人には知らされなかった。8月10日に手術を受け退院したが、家族は医師から「半年余りの間に再発する」という宣告を受けた。実は、雷蔵は生まれつき胃腸が弱く、1961年にも『沓掛時次郎』の撮影後に下血に見舞われており、病院で精密検査を受けた結果直腸に傷があるという診断を受けたことがあった。また、1964年1月に日生劇場で『勧進帳』をつとめた際には武智鉄二に対し、下痢に悩まされていると告白していた。

 退院後、雷蔵は『眠狂四郎悪女狩り』(1969年1月11日公開)『博徒一代 血祭り不動』(1969年2月12日公開)の撮影を行ったが体力の衰えが激しく、立ち回りの場面は吹き替えの役者が演じた。1969年2月に体調不良を訴え、再び入院。2度目の手術を受けた雷蔵はスープも喉を通らなくなるほど衰弱していたが、『あゝ海軍』で海軍士官の役を演じることに意欲を見せ、関係者と打ち合わせを行っていた。しかし復帰がクランクインに間に合わず、大映は代役に2代目中村吉右衛門を立てて撮影することを決定。そのことを新聞を読んで知って以来、雷蔵は仕事の話を一切しなくなった。7月17日午前8時25分、肝臓への癌転移のため死去した。

 死の間際、雷蔵は混濁した意識の中で死に顔を誰にも見せないよう何度も懇願したといわれているが、妻・太田雅子はこれを否定し、雷蔵は最後まで復帰をあきらめておらず、遺言は一切なかったと述べている。死後、雷蔵の顔には白布が二重に巻かれ、火葬されるまで解かれることはなかった。太田雅子によると、雷蔵本人の「痩せてしまった姿を誰にも見せたくない」「きれいな顔のままを皆さんに覚えておいてもらいたい」という願いから、死後は養父の壽海と社長の永田以外の者には死に顔を見せなかったという。墓所は大田池上本門寺。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。

 そのすぐれた演技と品格のある美しさを、今なお懐かしむファンが多く、1974年に発足したファンクラブ「朗雷会」は現在も活動を続けている。1990年、写真集出版をきっかけに再ブームが到来した。京都では、雷蔵の命日にあたる7月17日に行われる「市川雷蔵映画祭」で主演作品を上映することが夏の恒例行事となっている。

 1969年7月17日死去(享年37)





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