金城哲夫



金城哲夫(きんじょうてつお 1938年7月5日生)
 [脚本家]


 沖縄県出身。那覇高校の受験に失敗、上京して玉川学園高等部、玉川大学文学部教育学科卒業。玉川時代に、恩師である上原輝男の影響を受け、脚本に興味を持ち始める。一度帰郷し映画『吉屋チルー物語』を製作。上原より教え子の一人だった円谷皐を介して円谷英二を紹介され、東宝特撮映画で健筆を振るっていた関沢新一から脚本家としての指導を受ける。関沢の薫陶による「ポジティブな娯楽(エンターテインメント)志向」は以後の金城の作風の根幹をなした。

 1963年に円谷プロダクションへ入社、『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』など、黎明期の円谷プロが製作した特撮テレビ映画の企画立案と脚本を手掛ける。順風満帆かと思われたが、大人向けの特撮を目指した1968年製作の『マイティジャック』は、平均視聴率が8.3%と低迷したために1クールで打ち切りとなってしまう。挽回を図った『怪奇大作戦』は、平均視聴率22%と健闘したものの、スポンサーが「ウルトラに比べて低い」という判断を下したために、予定の2クールで終了。番組の受注が途絶えた円谷プロは、経営状態が悪化に伴い大幅なリストラを敢行し始める。その煽りで文芸部も廃されて以前のような発言力を失った金城は、1969年に円谷プロダクションを退社する。沖縄県に帰郷しラジオパーソナリティーや沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の構成・演出などで活躍したが、円谷プロ時代のような才能の輝きを見せるまでには至らなかった。

 1976年2月23日、泥酔した状態で自宅2階の仕事場へ直接入ろうとして足を滑らせ転落。直ちに病院に搬送されたものの、治療の甲斐なく、3日後の2月26日に脳挫傷のため死去した。出先から帰宅した際に仕事場の玄関扉が施錠されていたが、母屋に鍵を取りに戻るのが面倒で、たまたま開いていた2階窓から入ろうとして転落したものと推定されている。

 沖縄県に帰郷後の金城は地元のラジオ番組で、沖縄における米軍基地の負担を減らすために自衛隊による自主防衛の選択肢について触れ、それにより地元住人の不評を買い、また自ら演出立案に携わった沖縄海洋博でも、当時疲弊していた沖縄県経済の建て直しを図ったが、却って開催前よりも経済は悪化の一途を辿ってしまう。そのことが元来楽天主義だった彼を悲観主義へと変え、のちの事故につながる精神的な要因になったとも言われている。

 1976年2月26日死去(享年37)


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