中島らも



中島らも(なかじまらも 本名:中島裕之 1952年4月3日生)
 [小説家/プランナー/ライター/ミュージシャン]


 兵庫県で開業歯科医をしていた父親の次男として生を受ける。友人からの遊びの誘いを断って偉人伝を読む子供だった。名門灘中学校に、8位の成績で合格。ある教師の一言から自分を取り巻いている環境に幻滅し、母親に言いなりの「お勉強ロボット」になっていたことに気づいた中島は、灘中学校から灘高校在学中にかけ、飲酒や薬物、ロックや深夜ラジオ、貸本、山田風太郎、白土三平、ギター、バンド活動、万引き、スナックのバンドマン、漫画投稿、自慰に没頭して成績が急降下。『月刊漫画ガロ』の新人マンガ賞に入賞するが、「長いのでページ数を半分にしてくれ」と言われ根が尽き、漫画家になることを諦める。授業もテストも受けずに番外で灘高校を卒業。神戸YMCA予備校の予備校生となるも同校に顔を出したのは数回で、パチンコ店やジャズ喫茶へと足繁く通うようになり、喫茶店にたむろしていたフーテン仲間と共に揮発剤、鎮静薬、睡眠薬、大麻、アルコールに耽溺。文学論、思想について雑談するなどして過ごす。

 1年間のフーテン生活の後大阪芸術大学芸術学部放送学科に入学。授業にあまり出なかったので友達はほとんどおらず、何もせず時間を潰していたという。1971年、神戸三宮のジャズ喫茶で神戸山手女子短期大学の学生だった長谷部美代子と知り合い、1975年に小林聖心女子学院図書室で司書として働いていた長谷部と4年間の交際の末結婚。2LDKのアパートで新婚生活をスタートさせ、翌年4月に長男が誕生。中島は学生と主夫の兼業をこなし1976年に大学を卒業。卒業論文は放送倫理規定について。この頃から急に饒舌になったかと思うと翌日には寡黙になったりと不安定な部分があった。大学時代は高校在籍時から伸ばした髪が、腰まで届くほどの長髪になる。卒業間際になっても中島は就職活動もしていない状態で慌しくなる周囲を傍観しているだけで、見かねた叔父の公認会計士の紹介により印刷会社の株式会社大津屋にコネ就職、1977年に宝塚市に月2万7千円の30年ローンで一戸建の家を建て、翌1978年には二人目の子供(長女)を授かった。

 1980年、「パンクで一発、当てるつもりで」ロックバンド「PISS」を結成、5年間勤めた大津屋を退職。「中島が暇らしい」と宝塚の自宅は友人知人の他に自称ミュージシャン、パンクス、スキゾ、フーテン、ジャンキー、山師、グルーピー、不良外国人のたまり場となり、学生時代の薬物遊びが再燃。知り合いの医師から処方箋を入手してハイミナールを集めたり、酒やコデインを飲んでヨタ話をしギターを弾いたり、夫婦で居候達と性交渉をして過ごす。この家は外国人バックパッカーらの間でドラッグが回ってくる家として口コミで広がり「ヘルハウス」と渾名される。ただこの頃の中島はマリファナなど違法薬物の持込には厳しく、持ち込んだ者に対して「家族を巻き込むな」と叱責している。仲間からレコーディング費用を集めるもレコーディング直前に費用を女に騙し取られたため頓挫。1ヶ月の累計宿泊者が100人を超えた時もあり、汲み取り式便所の汲み取り口から排泄物が溢れそうになったり、顔にドーランを塗って夜の道路を徘徊したり、猫に睡眠薬を飲ませたら翌朝、飼っていたウサギが首だけになっていたといったエピソードが残っている。

 1981年、中島はコピーライター・藤島克彦の紹介で広告代理店の日広エージェンシーに再就職。ところが離人症気味になり、東京月島にある支所(アパートの一室)で仕事をしていた。1982年、かねてつ食品をスポンサーに雑誌『宝島』に同社の広告として『啓蒙かまぼこ新聞』を企画。翌1983年の『微笑家族』(『プレイガイドジャーナル』掲載)と合わせて、広告に不信感を持つ層を敢えてターゲットとし、スポンサーと読者=消費者が一緒になって広告上での遊びを通じてスポンサーに対する関心を持ってもらうという独特の方法で注目を浴びた。その後、よみうりテレビで放送されたコント番組「どんぶり5656」で構成作家を担当。また、1986年6月に劇団「笑殺軍団リリパットアーミー」を旗揚げし、脚本執筆のほか、自ら役者もこなした。

 1987年、独立するため日広エージェンシーを退社。フリーの身となってから有限会社中島らも事務所を設立し作家活動を本格化、宝塚の家には全く帰らなくなり事務所で寝泊りするようになる。戯曲、エッセイ、小説、落語、バラエティ番組の脚本やコントなど、多数執筆。その「ひねくれたユーモア感覚」で、「関西独特のおかしさ」や「市井の奇人や奇現象」などを描き、多くの読者、ファンを獲得した。多忙な人気作家となるも、飲酒がもたらす酩酊から着想を得ていた中島は連続飲酒を繰り返すようになる。アルコール依存を自覚していた中島は観念して病院に入院。1991年、「仕事はエッセイばかりで他のコピーライターに迷惑になる」とコピーライターの看板を外す。同年3月、「今夜、すべてのバーで」で第13回吉川英治文学新人賞、第10回日本冒険小説協会大賞特別大賞受賞。1993年3月、「ガダラの豚」で第47回日本推理作家協会賞受賞。1996年夏にはロックバンド「PISS」を再結成、ボーカルとギターを担当、解散後の新バンド「らも&MOTHER'S BOYS」ではボーカルとサイドギター担当するなど、音楽のジャンルでも活動の場を広げた。

 晩年は処方されていた薬の副作用から視力が殆ど無くなり、持病の躁鬱を繰り返す中ナルコレプシーを発症。更には時間概念の喪失、運動障害、躁状態がもたらす万能感から支離滅裂の言動が度々見られ、減薬と入院治療である程度回復するも飲酒は続けていた。2003年2月に「オランダで尻から煙が出るほど大麻を吸ってきた」と大阪のラジオ番組で公言。その数日後に大麻取締法違反などで逮捕された上、冷蔵庫から干からびたマジックマッシュルームも見つかる。大阪地方裁判所での初公判では弁護士から自重するよう求められていたにも関わらず持論の「大麻開放論」を展開。同年5月26日に懲役10ヶ月、執行猶予3年の判決を受ける。同年の夏、自らの獄中体験をつづったエッセイ『牢屋でやせるダイエット』を出版、手錠姿でサイン会を開くなど精力的に活動を再開した。

 2004年7月15日、三上寛、あふりらんぽのライブに飛び入り参加、終演後に三上寛と酒を酌み交わし別れた後、翌16日未明に神戸の飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院、15時間に及ぶ手術を行うも脳への重篤なダメージにより深刻な状態が続き、自発呼吸さえできない状態に陥る。入院時から意識が戻ることはなく、事前の本人の希望に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日午前8時16分に死去。故人の生前の希望で葬式は身内と近親者のみで密葬として行われた。遺骨は夫人の手で散骨され墓は無し。同年12月に中島らも事務所閉所。小説『酒気帯び車椅子』『ロカ』と対談集『なれずもの』が遺作として死後刊行された。

 2004年7月26日死去(享年52)


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