龍興山一人



龍興山一人(りゅうこうざんかずと 本名:宮田一人 1967年6月23日生)
 [大相撲力士]


 大阪府出身。堺市立浜寺中学校時代に元出羽海部屋の幕下力士・播州山の知り合いに勧誘されて相撲部に入り、3年生で出羽海部屋への入門を決めた。しかし、周囲の猛反対を受けるが、自分の意思を貫いて卒業とともに初土俵を踏んだ。しかし、一進一退が続いたことで嫌気が差し、12月に部屋を脱走した。しかし癌の治療中だった父に励まされたことで心を入れ替え、1984年に兄弟子に電話で連絡して部屋に戻ることとなったが、本人は復帰がかなり不安だったようで、高速道路でさえ逃げ出そうとした。やっとの思いで部屋に戻ると廃業届も提出されておらず、髷も残っていたことからすんなり復帰でき、父の没後は強みを増した。

 当初は遅い相撲だったが、1989年7月場所に十両へ昇進した頃には速くなり、腰の重さを生かしたがぶり寄りも覚え、その取り口から「琴風二世」と評された。1990年1月場所で新入幕を果たし、終盤の4連勝で9勝6敗と勝ち越した。

 ところが、1月場所後の2月2日の朝稽古のあと、廊下に出たところで突然意識を失って倒れた。同じ部屋に所属していた力士や親方によって救急車で病院に運ばれたものの、手当ての甲斐もなく虚血性心不全によって急死した。師匠だった出羽海(元50代横綱・佐田の山)は、心労によって数日間寝込んでしまった程だったという。さらに出羽海部屋の同期入門かつ同期生だった、大親友の小城ノ花昭和もそのショックが引退まで響き、「小結以上は間違いなし」と大きく期待されながらも結局三役昇進は果たせず、幕内と十両を行き来する「エレベーター力士」として終わった。

 本来ならば、番付編成会議後に亡くなった力士は翌場所の番付から四股名が消され、その位置は空き番付となるはずだった。しかし、龍興山の場合は新入幕を果たした場所で勝ち越したことで、翌場所は自己最高位を更新する予定であったため、「せめて番付だけでも故郷(3月場所は大阪で行われる)に錦を飾らせたい」という日本相撲協会の配慮で残されることになり、3月場所の新番付では自己最高位となる東前頭5枚目にその四股名が記載された。

 現役中に死亡した幕内力士は、第51代元横綱・玉の海正洋(1971年)以来19年ぶりの悲劇だった。龍興山と同じ1967年度生まれの元幕内力士は7人存在したが、剣晃敏志(1998年)、大翔鳳昌巳(1999年)、大輝煌正人(2009年)と既に4人もが病気により亡くなっている。特に剣晃は自身と同じ大阪府出身で、しかも現役中であった。

 1990年2月2日死去(享年22)


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