玉錦三右エ門



玉錦三右エ門(たまにしきさんえもん 本名:西ノ内彌寿喜 1903年11月15日生)
 [大相撲力士]


 高知県出身。農家の長男として生まれる。幼い頃から人一倍負けん気が強いのは地元で有名で、特に喧嘩と相撲が好きだった。尋常小学校を卒業後、高知県内では有名な土佐玉の本家へ奉公に出たが、偶然にもその時に高知へ巡業に来ていた太刀山峯右エ門一行と出会い、その中にいた土州山を見て憧れを抱き、力士を志す。しかし父親の猛反対に遭ったが、土佐玉本家の主人に粘り強く説得してもらって父親を納得させ、同郷の二所ノ関部屋へ入門した。しかし、当時の西ノ内の体格は165cm・67kgで体格規定を満たしていなかったことから、初土俵が遅れた。

 1919年1月場所に序ノ口でようやく初土俵を踏む。力士としては小兵となる体躯ながら無類の稽古熱心で、当時土俵を持たない小部屋の力士たちは回向院境内の土俵に集って稽古をしていたが、それを独占せんばかりの猛稽古は膏薬と包帯だらけで、「ボロ錦」とあだ名されるほどで素質の不足を補って実力をつけた。1925年1月場所で新十両、1年でスピード入幕を果たす。しかし体格の不利は相変わらずで、それを補うために「1本差しの突進」という取り口で、時には腹に乗せての吊りもあった。小部屋ゆえ強い稽古相手がいないため、二所ノ関の配慮で出羽海部屋へ預けられ、栃木山守也・常ノ花寛市の胸を借りてメキメキ強みを増した。

 1928年5月場所に関脇に昇進すると、その場所では9勝2敗、同年10月場所は6勝5敗、1929年1月場所では10勝1敗で念願の初優勝を達成する。これ以降も9勝2敗が3場所と続き、現在なら横綱昇進を期待するほどの安定した好成績を続けたが、大関になれなかった。その粗暴な性格が問題視されたたためと言われるが、部屋の力関係による冷遇もあった。さらに、当時は既に大関に常陸岩英太郎・大ノ里萬助・豊國福馬・能代潟錦作が在籍していたため、5大関では番付の編成上、とてもバランスの悪い結果となることもあった。

 1930年3月場所、玉錦は8勝3敗と好成績を残し、さらに能代潟錦作の成績不振による大関陥落によって、玉錦はようやく大関昇進を果たす。その後、同年10月場所から1931年3月場所まで3場所連続優勝を果たすが横綱昇進を見送られたため、玉錦は「死んでも横綱になってやる」と言ったと伝わる。その言葉で自分を奮い立たせて臨んだ1931年5月場所では、優勝なら4連覇となって横綱昇進はほぼ決定的と思われたが、場所前に師匠が病に倒れ、その看病疲れで8勝3敗に終わり、せっかく近づいた横綱昇進が遠のいてしまった。

 1932年1月6日に勃発した春秋園事件によって協会脱退組からの勧誘もあったがこれを追い返し、幕内力士が多く脱退した後の相撲界を自らが屋台骨となって支えた。さらに、事件の影響を受けて発足した力士会の初代会長に就任すると功績が認められ、1932年10月場所は7勝4敗とごく普通の成績ながら吉田司家よって横綱免許を授与される。これによって、1931年に宮城山福松が引退したことで発生した「昭和最初で唯一の『横綱不在』」を解消し、昭和に誕生した最初の横綱ともなった。

 1935年1月場所から3連覇、1936年1月場所にはついに全勝優勝を達成した。1935年1月には現役のまま年寄・二所ノ関を襲名、協会から二枚鑑札を許された。玉錦は寄席「広瀬」を買い取って念願の相撲部屋「二所ノ関部屋」を創立し、ここを本拠にして弟子の確保と育成にも励んだ。当時、同じ小部屋の立浪部屋によく出稽古で通い、双葉山定次を特に可愛がった。その双葉山にとって、玉錦は上位陣の中で最後まで越えられなかった壁だったが、1936年5月場所に初めて敗れ、これ以降は本場所で双葉山に一度も勝てなかった。同場所を全勝優勝した双葉山はそのまま連勝記録を69へ伸ばしていくが、この双葉山の連勝を止めるべく、玉錦も「打倒双葉」を合言葉に対策を繰り広げていく。1938年5月場所千秋楽、双葉山との一番は水入りになる熱戦になったが、寄り倒しで敗れた。これが玉錦にとって本場所最後の一番になった。

 1938年11月、年寄・二所ノ関を襲名してから初の巡業を行なっていた。これは勧進元を付けずに玉錦自らが勧進元を勤める手相撲で、失敗時の負担を勧進元に分担してもらえない危険がある代わり、成功したら収入は全て自分のものになるという、この時代は玉錦だからこそ出来るものだった。しかし、巡業の2日目に腹痛を訴えたので医者が診察すると、虫垂炎が悪化して腹膜炎になっていたことが発覚。それも非常に危険な所まで進行していたため、医者は玉錦を病院へ運ぼうとしたが、「このワシがそんな病になるものか。どうせ冷え腹程度に決まっている」と拒否した。その後、どうにか説得して連れて行くことになったが、迎えに来るように頼んでおいた寝台自動車が到着しておらず、待っている間に蒸しタオルで腹を揉ませたところ、痛みが消えたので治ったと思ったらしく「それ見ろ」と言ったがこれが致命的だった。病院に到着するとすぐに手術が必要だったが、執刀医は開腹して驚愕した。虫垂が破裂して膿が腹腔全体に広がっていた。これは搬送前に蒸しタオルで腹を揉んだのが原因で、驚きのあまり「玉錦関はこれでも何ともないのか!?」と言ったと伝わる。

 NHKの相撲解説者で弟弟子の玉ノ海によると、玉錦は手術後、水を飲むことを禁じられていたにも関わらず「喉が渇いた」と言っては氷嚢に入っていた氷を取り出してかじり、看護婦が浴衣をかけても跳ね除けるなどしたため、怖がって病室に近寄らなかったと伝わる。それでも弟子が見舞いに来ると、自身が担当した巡業の成果を心配して「どうだ、客は入ったか?」などと聞いた。しかし、手術後の患者らしく無い態度ばかり取っていたため、腹膜炎が急激に悪化して玉ノ海からの輸血も虚しく、1938年12月4日に「まわしを持って来い、土俵入りをするんだ」と言って仰向けのまま土俵入りを行い、最後の拍手を打ったところで息絶えた。

 現役横綱の死去は谷風梶之助(1795年)についで二例目(丸山権太左衛門を含めれば3例目)。後に現役死する玉の海正洋は、皮肉にも彼の孫弟子にあたる。現役力士としては史上初となる協会葬で送られた。

 1938年12月4日死去(享年35)


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