ロベルト・クレメンテ



ロベルト・クレメンテ・ウォーカー(Roberto Clemente Walker 1934年8月18日生)
 [プエルトリコ・プロ野球選手]


 プエルトリコカロリーナ生まれ。クレメンテの母親は2人の子供を連れて再婚。その後、5人の子供を産み、ロベルト・クレメンテはその末っ子である。家庭は非常に貧しく、父親は砂糖農園で働き、クレメンテも家計を支えるために幼い頃から仕事をしていた。兄の出場する少年野球リーグ戦について行って、見よう見まねに野球を始める。少年時代からスポーツの才能は抜きんでており、高校時代には陸上競技、やり投、走高跳などで活躍。モンテ・アーヴィンへの憧れもあり、最も力を入れていたものは野球だった。

 高校を卒業したクレメンテには9以上のMLB球団から入団交渉が来た。最初にニューヨーク・ジャイアンツから入団交渉が来たが、ブルックリン・ドジャースは優れた選手をライバル球団に入団するのを防ぎたいこともあり、契約金10000ドルと年俸5000ドルをクレメンテに提示。1954年2月19日、クレメンテはドジャースと契約した。1954年シーズンはドジャース傘下のモントリオール・ロイヤルズでプレイする。選手としての能力は認められたが、ドジャースには当時、メジャー全体の黒人選手20人中5人と、割合として非常に多くの黒人選手が在籍していたため、白人ファンの観客動員に影響を及ぼさないようにドジャースはクレメンテをマイナーでプレイさせた。

 ピッツバーグ・パイレーツスカウトは投手補強のため、モントリオール・ロイヤルズのジョー・ブラック獲得を狙っていたが、クレメンテを目のあたりにし、クレメンテ獲得を狙うようになった。1954年11月22日、クレメンテは現在のルール5ドラフトにあたる制度でパイレーツから指名を受け、移籍。1955年4月17日にメジャーデビューを果たした。以後1972年に不慮の死を遂げるまでの18シーズン、ピッツバーグ・パイレーツ一筋のメジャーリーグ生活を過ごした。

 クレメンテの通算打撃成績は、打率.317、240本塁打、1305打点、3000安打である。1961年には打率.361で首位打者のタイトル獲得、その後も1964年(.339)、1965年(.329)、1967年(.357)と4度首位打者を獲得し、打率は年間上位10人の中に13度入った。1964年シーズン終了後にはベラ・ザバラと結婚している。1966年には29本塁打、119打点を記録し、ナショナルリーグMVPに選出された。

 右翼手としても群を抜いた強肩で、その強肩は「ライフルアーム」と称され、相手走者には恐れられていた。1試合最多補殺5回はナ・リーグ最多。1961年にはシーズン27補殺を記録し、メジャー生活18年で通算267補殺を記録している。「ペンシルベニアで投げたボールがニューヨークまで届く」「クレメンテの守るライトに打球が飛んだならそれが観客席以外であったら進塁をあきらめろ」ともいわれた。クレメンテは外野手として最多タイのゴールドグラブ賞を12回受賞している。

 1960年、クレメンテの活躍によりチームは33年ぶりにリーグ優勝を果たし、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは4勝3敗で35年ぶりの世界一となる。クレメンテは全7試合に出場し、チーム最多の9安打を記録した。パイレーツは1971年にも世界一となり、クレメンテは打率.414を記録し、ワールドシリーズMVPに選出された。第7戦ではソロ本塁打を放ち、チームは2対1で勝利。クレメンテはワールドシリーズに出場した全14試合で安打を記録しており、当時、ハンク・バウアーの17試合連続安打に次ぐ連続安打記録だった。

 1972年12月23日、ニカラグアで巨大地震が発生。その夜、クレメンテの3000本安打達成を祝うパーティが催され、地震のことが話題となった。クレメンテを中心に救援が検討され、翌24日から救援活動が行われた。救援物資を募ったが、ニカラグアの軍隊の兵士がその物資を盗み、モルヒネを売りつけているという情報を知ったクレメンテは、「私がニカラグアへ飛べば盗難はなくなるだろう。このロベルト・クレメンテから物を盗むことはないはずだ」と言い、ニカラグアへ行くことになる。チャーター料が安いため、ジェット機ではなくターボプロップ機DC-7に最大積載量を上回る救援物資を積み、クレメンテを乗せたDC-7は12月31日の夜に離陸した。しかしその直後に片方のエンジンの調子がおかしくなり、フライトデータレコーダーによると操縦士が引き返すと言い、急旋回した直後にカリブ海へ墜落。クレメンテは死亡した。事故後、沿岸警備隊の捜索や、クレメンテの友人たちによる救助活動が行われたが、機体の一部を回収したのみで、クレメンテの遺体は発見されなかった。

 その死を悼み、1973年1月3日にアメリカ野球殿堂入りの選考で特別措置を取ることを発表。通常は引退後5年を経過しないと被投票資格を得られないが、クレメンテはルー・ゲーリッグに次いで史上2人目となる期間短縮の特別措置が取られた。生前、クレメンテが慈善活動に積極的に動き、事故死したのもその活動中だったことから、メジャーリーグ機構では、これまで慈善活動を行ったメジャーリーガーに贈られる「コミッショナー賞」という名の功労賞を、「ロベルト・クレメンテ賞」と改称。ロベルト・クレメンテ賞はMVPに匹敵する名誉ある賞となっている。

 1973年開幕戦の4月6日を追悼試合として行われ、クレメンテがつけていた背番号21はパイレーツの永久欠番に指定された。クレメンテの影響で、中南米系のメジャーリーガーには背番号を「21」番を付けたがる選手が多く、憧れの対象となっている。2001年に開場したPNCパークの右翼のフェンスの高さはクレメンテの背番号にちなみ21フィート(約6.4メートル)である。

 1973年5月14日に議会名誉黄金勲章を授与され、2002年に当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュから大統領自由勲章が送られた。2005年10月26日、ラティーノ・レジェンズ・チームに選出された。ピッツバーグ・パイレーツの本拠地PNCパークで行われた2006年オールスターゲームでは、ロベルト・クレメンテのコミッショナー特別表彰受賞セレモニーが行われ、遺族のクレメンテ夫人が表彰を受けた。

 1972年12月31日死去(享年38)





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